ANDADURA

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2026.8.24

材料を合わせる

 

これから出そうと思っている新しい革色の具材合わせを、ちまちまと行っていました。ものとして出すまでにやることとして、革と糸色を合わせる。金具カラー、染料もどの色にするかを考える。そして、ファスナーのカラーを決める。それらを発注し、材料が揃ったら、本ちゃんの制作に入れる。

革が届いたのが4月頃。すぐに合わせてみる。定番のファスナーを当ててみる。合わない。濃茶という色は、ゴールドの色が驚くほど合わない(と感じる)
そしてふっと思う。「ここいらで重さに向き合う時なのかもな。」と。これまでは、軽さを軸足にしてものごとを見ていたけど、状況もころころ変わる世の中で、安定した重さに向き合うのも良い頃合いなのかもしれないなと思った。それならば、アンティークゴールドという茶色い重さのある金具カラーになるだろうと想像し、ファスナーを選び発注する。

1ヶ月くらいして、ファスナーが届き、組み合わせを再開する。試しに作ってみるも、当然重い。この重さってのが、安定感も感じず、ただ重厚感があるだけで、見ていてワクワクしない。「重さって路線は違ったかもな。」と思い、いったん放置する。どういう目線と角度で組み合わせようか?を考える。

 



僕は昔から作ったものを見る際に、「イームズ方式」を採用している。作ったものを違和感ある場所なんかに置いておいて、制作とは違ったタイミングで眺めたりする。翌朝目につくところに配置したりして新鮮な目で見れるようにするのだ。大学の頃に読んだイームズの本に書いていたのを覚えていて、独立した時から採用している、ものを見る方法。

「重さ」に向き合うのではなく、「重心を下げる」って目線で進めていくのがいいのでは、とふっと思う。流れが早いところで流されないようにと重くしていくのは、無理があったな、と思い、重心を意識して組み立てることにする。ファスナーもその目線で頼みなおす。

チョコは革自体に重みのある色なので、染料も通常の濃度で塗ると、濃密に感じる。いろんなカラーを試したけど、納得いくものがなかったので、染料に対して水を25パーセントほど加え、濃厚さを軽減させる。よし、ひとまず染料選定はクリア。

糸はいつも使っている糸色が大幅に廃盤になっていたけど、合うのが残ってくれていた。糸は本体より少し濃く、若干グレー味のあるものにする。数色作り、またイームズ方式で眺めながら生活する。その時の光によっても見え方が変わるし、革の色もその時々によって異なるので、その辺りを考慮しつつ、違和感のある色を見えない場所に移動する。

ファスナーカラーを決めるのは、昔から苦手で、毎回苦戦するところでもある。見本帳にはファスナーテープの色のみ(それも2cmくらいの小さいもの)が載っていて、それでは、金具とファスナーカラーの関係性は分からない。見本帳で選んだ色も、実際に作ってみると革の色に左右され、見本帳の色とは違って見える。なので、実際に気になるカラーは作ってみないことには分からない。実際に見え方に関係するのは、革とファスナーカラーと金具の色の関係性だけではなく、糸色、コバの色と雰囲気などとの関係性もあるので、本ちゃんのクオリティーで作って見ないことには分からなかったりする。「また違ったな。」と何色も試すのは少し胆力のいる作業だったりもするけど、「この色ならどうだろう。」と違う組み合わせを見ることへの楽しみもある。

チョコのカラーの組み合わせは、無事決まった。ものを作る中で好きな瞬間のひとつは、あれこれ試して実験した後に、「あとは素直に作ればいいや。」ってポイントがやってくる。そして、色んな可能性で開いていた目線を、素直な目線に切り替える時に感じる安心感は、何度でも味わいたくなる。

チョコの組み合わせが終わった時に、昔からの長年の宿題を思い出す。それは、ネイビーにシルバーの金具を合わせる際に、どのファスナーカラーにするかというもの。
チョコのファスナーも頼むことだし、この宿題(別に誰かから頼まれたものではない)もやったろうじゃないかと思い、合わせているところ。(ぜんぜん合ってくれない。合うってなんなんだろう?)

ある時から、スクワットをやったり、ジャンプしたりするようになった。チョコのファスナーを合わせ終わった頃に、そのことに気がつき、自分自身の重心も下げようとしていたみたい。毎回思うけど、新しいものを作ったり考えたりすると、普段の日常もそれに合わせて(というか無意識に)変化するのが面白い。

さまざまな素材や色を合わせる作業には、特にこれといった根拠はなく、これが正解というのものない。合うか合わないかの感覚的なものでしかなく、合っていると感じている自分の感覚にも根拠のようなものはない。ただそう感じるということだけが決め手となる。だからこそ、不意にジャンプするようになったりして、使えるものは全て使って作っているんだなと感じる。

 

 

 

2026.8.24 | note

2026.6.18

どうにもならないこと

 

写真はミシンの中押さえという部品です。左の4個は同じ品番だけど、それぞれ形が違う。
僕が使っているのは、一番左のかたちのもので、残りは購入したものの使わなかった押さえたちです。特殊な箇所を縫う時などは、加工して使うかもしれないと思い、保管している。
 
中押さえはコバから縫い糸の位置のガイドの役目もあるので、左の押さえ以外で縫うと、縫い位置をかなり意識しながら縫わないといけない。左の押さえは、縫い位置も好みだし、縫っている時の感覚も体に染み付いてしまっている。縫っている場所も不思議と見やすい。
ミシンが2台あるので、違うミシンを使う時は、わざわざ押さえを外してつけかえることになる。2台あるなら、押さえは2個あった方がいいじゃん、と押さえを買うのだけど、微妙に幅が違う。品番は同じなので、間違えて送られたわけではない。0.1mmとか0.2mmくらいの誤差で送り返すこともできない。写真を見ても、この形状が自分には、合うのかどうなのかは判断出来ない。というか、ネットで購入する場合には、同じ品番なので、過去に撮ったであろう写真が使われているので、写真を見て買うことすらできない。一度いくつかの押さえの写真を送ってもらい、選んだこともあったけど、それもダメだった。
 
ここにある押さえ以外にも、おそらく、7回はチャレンジしている中押さえがいる。押さえが送られてくる。早速、開封して押さえを手にする。
その時にはもう、この押さえが自分と相性が良くないことは分かっている。(封筒を手にした時に、違ったと思うこともある。)
分かっているけど、試しにミシンに装着し、縫ってみる。案の定だ、縫うまでもない。そして、自分に言い聞かす。その押さえだって、ただ慣れているから自分に合っているだけで、
その新しい押さえも使っていたら、慣れるかもよ、と。負け戦なのは分かっているけど、そうなればいいと思い、慣れない押さえで縫う。
そうこうしていると、ものの5分でこんな声が聞こえてくる。
「使いやすい押さえがあるなら、わざわざ慣れない押さえなんて使わなくてもいいじゃん。」5分後には、そうだよ、この感じだよ、とか言いながら、いつもの押さえで縫っている自分がいる。こんなことを7回繰り返した。いつも同じだ。最初の頃は、あきらめがつかず、押さえを鏡面磨きをしたり加工したりして強引にお気に入りにしようとしたこともあったけど、それもダメだった。どんなにテクノロジーが発達しても、僕と相性の良い中押さえをマッチングさせることは出来ない。
 
 
という訳で、いまだ2台のミシンは押さえをつけかえながら使っている。
こうやって文章を書いているのは、8回目のチャレンジをしようかしら、と思っているからで、もうそろそろ、相性ピッタリがやってきてくれるのでは、と淡い希望を抱いている。まぁ、いつもそう思って同じことを繰り返すことになるのだけど。
 
 
 
 
2026.6.18 | note

2026.2.19

椅子・考

 

去年は椅子について考えることが多かった。あつおくんと度々会っていたので、椅子について、自然に思いを巡らせるようになる。

あつおくんと話していて、椅子の黄金時代と比べると、材料の質や、作るのにかけられる時間など、ほとんどの分野で勝ち目がないそうで、現在に有利な点といえば、その後にどんな椅子が作られたかを知っている、という知の部分だった。

どんな椅子が作られたのかを考えると、100年くらいのタイムスパンで、ものごとを眺めることになる。椅子から離れ、人類にとって、椅子に座るという行為は何なのか、ということに思いを巡らせると、タイムスパンは随分と広がる。知が武器であるなら、パースを広げるという行為は、とても面白い冒険のように感じる、というわけで、椅子に座るということについて、思いを巡らせてみる。人類学者が婚姻制度について思いを巡らせるように。


と言っても、ただ空想・妄想しているだけで、根拠は無い。思いを巡らせているだけ。

まずは、これまで見たことのある椅子をあれこれ頭の中で思い浮かべみる。
古い椅子は、座の低い椅子が多い、まずはそこに焦点をあててみる。その椅子は、靴作りの椅子だったり、牛の乳搾りの椅子だったり、何かの作業の助けとなる椅子が多い、座面の高さは、切り株の高さのを模しているように感じる。あるいは、深くしゃがんだ方が作業に集中できるのかもしれない。そんな高さだ。

現在使っている椅子の高さは、テーブルの高さに合わせた高さで作られている。テーブルが無い時代は、その高さに縛られる必要がなかった、のかもしれない、と想像する。テーブルが無いことを前提として、作業しやすい椅子の高さがあるのかもしれない。
 
椅子というのは、何らかの作業をしやすいように手助けしてくれるものである。しかし、それ以前に、椅子というものは、人を長い時間そこに留めておくことのできる道具でもある。この作用は座るという機能よりも、根幹に根ざしているようにすら感じる。
 
その作用に最初に目をつけたのは、多分教会(的なるこも)なのだと想像してみる。ひとつの場所に人を留めておくことができるなら、教義はよりスピーディーに、効率的に広げることができる。僕が神父ならそうするかもしれない。

考えてみると、例えば椅子がない空間に何人かの人がいる場合、円座になったり、ランダムな配置になりそうだけど、椅子を並べることで、空間に規則性をもたらすことが出来る。これも椅子がもつ大きな作用。
 
その規則性は、円座による双方向の関係性から、一方向の関係性を生み出すことに繋がっていったのだと想像する。規則正しく並んだ椅子は、ランダムな立ち振る舞いを自然と排除し、その場に規律を立ち上げる。1人の知っているものが、複数の知らないものに何かを伝授するという環境も整えられる。
 
運動場などで整列しているのは、椅子以後の思考法で、椅子による規則性がない時代は、軍隊による整列など、特殊(その時代においては平常のことでありえたかもしれないけど)に用いられたくらいで、あまり整列という状況は生まれなかったのではなかろうか。
 
もちろん、個々人が椅子に座るという行為はずっとあっただろうけど、教会的な椅子の用い方は、座るという行為が当たり前になった今、きちんと考えておくことが大切なことのように感じる。
教会的な椅子の用い方は学校にも広がる。そして会社にも伝播する。学校というものは、古くからあっただろうけど、椅子の作用により、学校という空間に大きな変化をもらたしたのだろうと推測する。
 
この規則性について、思いを巡らせていると、フーコーのいう、規律訓練型権力という言葉が頭をよぎる。椅子というものは、規律訓練型権力に深くコミットしている、というかそれを下支えするものである。座るということで、長時間そこに留まることが出来るというあり方は、うがった見方をすれば、権力的なありようと結びついているように感じる。
 
インターネットが出てきた時に、このメディアは自分たちに何をもたらすのか?ということは、再三考えられたし、昨今のAIの議論も然りだ。椅子の登場は議論を生んだのだろうか?それまで家でも椅子を使っていて、この馴染みあるものが議論の対象になるとは考え難い。教会にずらっと並ぶ椅子を見た時に、当時の人は何を感じたのだろうか?
 
椅子の教会的な用いられ方は、人間に規律を与えた、という一面は見落としてはならないことのように感じる。椅子に座り、音楽も聴いたであろうし、さまざまな知恵を広げるのに役立った、ということを僕は知っている。椅子に罪はない。名作椅子を作った先人たちは、座ることに関するさまざまなベクトルを考えたのだろうか?と想像してみる。当時の椅子作りは、良きライバルもいて、皆で切磋琢磨できる。良い材を使うこともできるし、人々の生活を豊かにすることだと信じられた時代は、そんなことを考えなかったのではなかろうか?僕が当時に生きていたら、良い椅子を作ることが楽しくて、そんな余計なことは考えなかったかもしれない。世の中の回転のようなものが、緩やかになったことで、考えざるを得なくなったように感じる。
 
寺子屋のイメージが頭に浮かぶ。(映画とかのイメージだけだけど)そこには椅子がなく、おそらくその日の気分や体調や得意・不得意の科目なんかで、今日は後ろに座ろうとか、今日は最前席でがっつり勉強しよう、などと変則的に、その時その時の感覚で席を決めていただろう。
 
お城に行った際に見た、殿さまが使ったであろう肘置きも思い出される。時代劇では、戦場において、椅子に座っている武将の姿は描かれているけど、日常的には椅子に座る習慣はなかったのだろうか?どうなんだろう?椅子に座る習慣はなかったとのことで話を進めてみる。
 
なぜ、日本では椅子が用いられないのかを想像すると、肚の感覚を持っていたからなのではないだろうか。椅子の背もたれにもたれかかると、肚が開き、無防備な状態になる。この肚がさらけ出すことに違和感があったからじゃないか?肘掛けにもたれかかっても、肚は開かない。もしくは、刀を差していることと椅子は相性が悪いのかもしれない。
 
この肚の感覚は、ヒントになるのかもしれない。
 
といっても、現在では、椅子に座って、テーブルで作業するのが当たり前になっているので、そこから逸脱したものは作りにくいだろう。でも、離れたところから、座るということを眺め、その作用を知っておく(ただの想像だとしても)ことは大切なことのように思う。
 
まぁ、実際のところは、分からないんですけどね。

 

 

2026.2.19 | note

2026.1.26

ファーストリュック 2026

 
毎年の恒例行事、広島にあります、さざなみの森さん子どもたちのファーストリュックの納品に行ってきました。
 
ちょうど、お餅つきの日でしたので、餅つきをして、おしるこをいただき、たくさん遊んだ後に、カバンをお渡しができるように、タグをつけ、不織布に入れる作業をする。毎年恒例の手を動かしながらのおしゃべりも楽しみました。
 
子と竹の棒で小一時間チャンバラをしたり、(いろんな方に勝負を挑んでいた。)一緒にご飯を食べたり、たくさんおしゃべりをしたり、はじめましての嬉しい出会いもあったりして、リュックの納品に行ったものの、こちらがたくさんのものをいただいている、そんな1日でした。
 
ファーストリュックを作り始めたのが、2021年ですので、今年で6年目です。その間にいろんなものごとが、すごいスピードで変化しているように感じます。
 
 
そんな中、園庭の植物は毎年少しつづ成長し、庭の柵は、枝を使って作られていたり、皆が仕込んだ味噌壺が並んでいたり、お餅つきのもち米が、園の皆で作ったものだったり、生活に根ざしたものの中で過ごすことは、すごく安心します。新しく始められた、小学生のフリースクールの場で、子供たちが半年かけて掘った穴も見ることができたのも良かった。
さざなみの森の、松井さん、菜穂さん、スタッフのみなさん、はじめましてのみなさん、今年もありがとうございました。
 
リュックの縫製をして下さっている、Sally-allyの長野さん、縫製チームのみなさま、ありがとうございました。毎年言っていますが、生地やファスナー、ショルダーのテープ、糸や、プラパーツなど、作って下さっているメーカーの方々にも、ありがとうございますと、大きな声で伝えたいです。
 
 
毎年、リュックの納品の時は定点観測として、ものづくりの状況を確認する機会になっていましたが、今年は、そんな俯瞰したところから、ものごとを見るより、自分自身も入り込んで、たくさん味わったことを、じっくり体に染み込ませたいと思う、そんな納品でした。
 
 
2026.1.26 | information products note

2025.8.27

腰袋用ベルト

 

プレゼントにと腰袋用のベルトを作りました。

自分用に何個も作り、使っているベルトを少し改良して制作しました。肉厚で柔らかいテープに、マグネットでワンタッチで脱着できるバックル。腰袋の脱着が楽なので、休憩の時に腰袋をつけたまま、ということも少なくなります。

 

 

ベルトの端がピラピラしないように、角カンをつけて、本体と一体になるようにしました。

 

 

バックルとベルトテープの縫いは、段差をなるべく少なくするために、テープは折り返しはせず、通常のミシンで、ひと針ひと針カンヌキ縫いをしました。

 


作業のしやすさに特化した、ベルトになりました。

 

 

2025.8.27 | note

2025.8.25

川の無限

 

週末は祖谷川に川遊びに行ってきました。
妻の誕生日だったので、小旅行。

子には、「綺麗な川で泳ぐと、1週間くらいずっと爽やかに過ごせるよ。」と言っていた。
「それって無限ってこと?」「そう、川で泳ぐとたしかに無限になるね。」
というわけで、無限になりに川へ。

かずら橋から、上流に散策すると、川の間に、大きな丸太が挟まっているのが見える。

その丸太の半分は木で、半分は石化して、石になっている丸太だった。木って石になるの?と思ったけど、目の前の丸太は、木が石になることを、その姿で示してくれている。

一度、半木半石の丸太を見たあとでは、どの石が木が長い時間をかけて石になったものかが分かるようになっている。今立っている巨石も、木が流され、堆積し、砕け、また堆積することを繰り返し、巨大な塊となり石化したものだったと分かる。それまで石としてしか見えなかったものが、1本の丸太を見たことで、もともと木であったことを知覚できるようになっている。その知覚を通して、木の時間がその場に立ち現れてくるように感じる。不思議な感覚だ。

川を歩いて下る際は、皆で、「これは木だったやつだね。」などと言いながら、新しく開いた回路を味わうように、さまざまな石を眺める。「石だけど木にしか見えないね。」どうしてこれが石に見えていたんだろうか?

石化した木には、堆積して固まりになったものもあるけど、1本の巨木だったであろうものも紛れていて、木であったことを想像できない太さだった。大昔にはこんな大木が生えていたのだろうか。その木だった石はまさに、「恐竜時代のメッセージ」で、そのメッセージをしっかり受け取ったとは言い難いけど、「しっかり見たよ、君たちはもともとは木だったんだね。」と小さな声でささやくくらいは出来た。

川で泳いで無限になるという趣旨とは、少し違った角度で、無限を感じた週末でした。

 

 

 

2025.8.25 | note

2025.5.26

週末に作ったもの

 

脚立に登らず地面にいながら雨樋掃除ができるように、パーツを強引につなげて(パーツの隙間は無視して)ブロアーを改造。

下の枝は、土で固まった箇所をゴリゴリする道具。ちょうど良い角度の枝ぶりの木を選んで制作。(枝を切っただけ。)

これで、2階の屋根の雨樋も掃除できるようになった。

地味ながらも、安定しない脚立に乗って作業しなくていいので、梅雨前の雨樋の掃除が、少し楽になりました。

 

 

2025.5.26 | note

2025.5.23

テーブルの上の十字

 

ビニ板の下に、A4用紙に書いた十字がある。

ずっと使っているので、何年ものの十字だろうか。記憶にはないけど、引越しの度に新調しているような気もするので、おそらく3代目の十字になる。
 
ある時、ホックを打っていて、玄能で打つ力が逃げないように、テーブルの足の中心でホックを打つのが良かろう、と思い、ささっとA4用紙にマッキーで十字を書いて、ビニ板の下に潜り込ませた。
 
その時から、ただテーブル足のセンターを教えてくれるだけで、なんの主張もしない十字が現れた。
 
記憶にも残らず、普段は忘れてしまっている十字だけど、今日はなぜだか、10秒ほど、十字を見てみた。
まぁ、格別感じることはなかったけど、文章にしておこうという気にはなったので、書いてみました。

 

 

 

2025.5.23 | note

2025.5.23

仲良きことは

 

少し前に、染料入れと薬品入れをガラスにしたいと、ふと思い立ち、工房にやって来た実験用ガラス容器。

 

 

使ってみると、片方を使うときは、もう片方がフタ置きになってくれ、もう一方を使うときも、同じように、もう一方がフタ置きになってくれる。

 

 

まったく想像していなかった使い勝手。嬉しい誤算。

この容器を使っていると、なぜか「倚りかからず」の詩が頭に浮かんでくる。

お互いをサポートし合うような、たまには倚りかかる関係性の容器を見ていると、今度は実篤氏の詩が頭に浮かんでくる。

 

 

 

2025.5.23 | note

2024.12.28

仕事納め

 

急に年末がやってきたようで、気がつけば仕事納め。
大掃除でもしようかと思ったけど、通常制作がしたいなと思ったので、
正月は旧暦を採用するとして、淡々と制作する。

今年は「しゃーない(しかたがない)」と「知らんがな」「まっ、なんとなく」という言葉をよく使った一年でした。

今年もありがとうございました。

 

 

2024.12.28 | note
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