ANDADURA

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2026.2.19

椅子・考

 

去年は椅子について考えることが多かった。あつおくんと度々会っていたので、椅子について、自然に思いを巡らせるようになる。

あつおくんと話していて、椅子の黄金時代と比べると、材料の質や、作るのにかけられる時間など、ほとんどの分野で勝ち目がないそうで、現在に有利な点といえば、その後にどんな椅子が作られたかを知っている、という知の部分だった。

どんな椅子が作られたのかを考えると、100年くらいのタイムスパンで、ものごとを眺めることになる。椅子から離れ、人類にとって、椅子に座るという行為は何なのか、ということに思いを巡らせると、タイムスパンは随分と広がる。知が武器であるなら、パースを広げるという行為は、とても面白い冒険のように感じる、というわけで、椅子に座るということについて、思いを巡らせてみる。人類学者が婚姻制度について思いを巡らせるように。


と言っても、ただ空想・妄想しているだけで、根拠は無い。思いを巡らせているだけ。

まずは、これまで見たことのある椅子をあれこれ頭の中で思い浮かべみる。
古い椅子は、座の低い椅子が多い、まずはそこに焦点をあててみる。その椅子は、靴作りの椅子だったり、牛の乳搾りの椅子だったり、何かの作業の助けとなる椅子が多い、座面の高さは、切り株の高さのを模しているように感じる。あるいは、深くしゃがんだ方が作業に集中できるのかもしれない。そんな高さだ。

現在使っている椅子の高さは、テーブルの高さに合わせた高さで作られている。テーブルが無い時代は、その高さに縛られる必要がなかった、のかもしれない、と想像する。テーブルが無いことを前提として、作業しやすい椅子の高さがあるのかもしれない。
 
椅子というのは、何らかの作業をしやすいように手助けしてくれるものである。しかし、それ以前に、椅子というものは、人を長い時間そこに留めておくことのできる道具でもある。この作用は座るという機能よりも、根幹に根ざしているようにすら感じる。
 
その作用に最初に目をつけたのは、多分教会(的なるこも)なのだと想像してみる。ひとつの場所に人を留めておくことができるなら、教義はよりスピーディーに、効率的に広げることができる。僕が神父ならそうするかもしれない。

考えてみると、例えば椅子がない空間に何人かの人がいる場合、円座になったり、ランダムな配置になりそうだけど、椅子を並べることで、空間に規則性をもたらすことが出来る。これも椅子がもつ大きな作用。
 
その規則性は、円座による双方向の関係性から、一方向の関係性を生み出すことに繋がっていったのだと想像する。規則正しく並んだ椅子は、ランダムな立ち振る舞いを自然と排除し、その場に規律を立ち上げる。1人の知っているものが、複数の知らないものに何かを伝授するという環境も整えられる。
 
運動場などで整列しているのは、椅子以後の思考法で、椅子による規則性がない時代は、軍隊による整列など、特殊(その時代においては平常のことでありえたかもしれないけど)に用いられたくらいで、あまり整列という状況は生まれなかったのではなかろうか。
 
もちろん、個々人が椅子に座るという行為はずっとあっただろうけど、教会的な椅子の用い方は、座るという行為が当たり前になった今、きちんと考えておくことが大切なことのように感じる。
教会的な椅子の用い方は学校にも広がる。そして会社にも伝播する。学校というものは、古くからあっただろうけど、椅子の作用により、学校という空間に大きな変化をもらたしたのだろうと推測する。
 
この規則性について、思いを巡らせていると、フーコーのいう、規律訓練型権力という言葉が頭をよぎる。椅子というものは、規律訓練型権力に深くコミットしている、というかそれを下支えするものである。座るということで、長時間そこに留まることが出来るというあり方は、うがった見方をすれば、権力的なありようと結びついているように感じる。
 
インターネットが出てきた時に、このメディアは自分たちに何をもたらすのか?ということは、再三考えられたし、昨今のAIの議論も然りだ。椅子の登場は議論を生んだのだろうか?それまで家でも椅子を使っていて、この馴染みあるものが議論の対象になるとは考え難い。教会にずらっと並ぶ椅子を見た時に、当時の人は何を感じたのだろうか?
 
椅子の教会的な用いられ方は、人間に規律を与えた、という一面は見落としてはならないことのように感じる。椅子に座り、音楽も聴いたであろうし、さまざまな知恵を広げるのに役立った、ということを僕は知っている。椅子に罪はない。名作椅子を作った先人たちは、座ることに関するさまざまなベクトルを考えたのだろうか?と想像してみる。当時の椅子作りは、良きライバルもいて、皆で切磋琢磨できる。良い材を使うこともできるし、人々の生活を豊かにすることだと信じられた時代は、そんなことを考えなかったのではなかろうか?僕が当時に生きていたら、良い椅子を作ることが楽しくて、そんな余計なことは考えなかったかもしれない。世の中の回転のようなものが、緩やかになったことで、考えざるを得なくなったように感じる。
 
寺子屋のイメージが頭に浮かぶ。(映画とかのイメージだけだけど)そこには椅子がなく、おそらくその日の気分や体調や得意・不得意の科目なんかで、今日は後ろに座ろうとか、今日は最前席でがっつり勉強しよう、などと変則的に、その時その時の感覚で席を決めていただろう。
 
お城に行った際に見た、殿さまが使ったであろう肘置きも思い出される。時代劇では、戦場において、椅子に座っている武将の姿は描かれているけど、日常的には椅子に座る習慣はなかったのだろうか?どうなんだろう?椅子に座る習慣はなかったとのことで話を進めてみる。
 
なぜ、日本では椅子が用いられないのかを想像すると、肚の感覚を持っていたからなのではないだろうか。椅子の背もたれにもたれかかると、肚が開き、無防備な状態になる。この肚がさらけ出すことに違和感があったからじゃないか?肘掛けにもたれかかっても、肚は開かない。もしくは、刀を差していることと椅子は相性が悪いのかもしれない。
 
この肚の感覚は、ヒントになるのかもしれない。
 
といっても、現在では、椅子に座って、テーブルで作業するのが当たり前になっているので、そこから逸脱したものは作りにくいだろう。でも、離れたところから、座るということを眺め、その作用を知っておく(ただの想像だとしても)ことは大切なことのように思う。
 
まぁ、実際のところは、分からないんですけどね。

 

 

2026.2.19 | note

2026.1.26

ファーストリュック 2026

 
毎年の恒例行事、広島にあります、さざなみの森さん子どもたちのファーストリュックの納品に行ってきました。
 
ちょうど、お餅つきの日でしたので、餅つきをして、おしるこをいただき、たくさん遊んだ後に、カバンをお渡しができるように、タグをつけ、不織布に入れる作業をする。毎年恒例の手を動かしながらのおしゃべりも楽しみました。
 
子と竹の棒で小一時間チャンバラをしたり、(いろんな方に勝負を挑んでいた。)一緒にご飯を食べたり、たくさんおしゃべりをしたり、はじめましての嬉しい出会いもあったりして、リュックの納品に行ったものの、こちらがたくさんのものをいただいている、そんな1日でした。
 
ファーストリュックを作り始めたのが、2021年ですので、今年で6年目です。その間にいろんなものごとが、すごいスピードで変化しているように感じます。
 
 
そんな中、園庭の植物は毎年少しつづ成長し、庭の柵は、枝を使って作られていたり、皆が仕込んだ味噌壺が並んでいたり、お餅つきのもち米が、園の皆で作ったものだったり、生活に根ざしたものの中で過ごすことは、すごく安心します。新しく始められた、小学生のフリースクールの場で、子供たちが半年かけて掘った穴も見ることができたのも良かった。
さざなみの森の、松井さん、菜穂さん、スタッフのみなさん、はじめましてのみなさん、今年もありがとうございました。
 
リュックの縫製をして下さっている、Sally-allyの長野さん、縫製チームのみなさま、ありがとうございました。毎年言っていますが、生地やファスナー、ショルダーのテープ、糸や、プラパーツなど、作って下さっているメーカーの方々にも、ありがとうございますと、大きな声で伝えたいです。
 
 
毎年、リュックの納品の時は定点観測として、ものづくりの状況を確認する機会になっていましたが、今年は、そんな俯瞰したところから、ものごとを見るより、自分自身も入り込んで、たくさん味わったことを、じっくり体に染み込ませたいと思う、そんな納品でした。
 
 
2026.1.26 | information products note

2025.8.27

腰袋用ベルト

 

プレゼントにと腰袋用のベルトを作りました。

自分用に何個も作り、使っているベルトを少し改良して制作しました。肉厚で柔らかいテープに、マグネットでワンタッチで脱着できるバックル。腰袋の脱着が楽なので、休憩の時に腰袋をつけたまま、ということも少なくなります。

 

 

ベルトの端がピラピラしないように、角カンをつけて、本体と一体になるようにしました。

 

 

バックルとベルトテープの縫いは、段差をなるべく少なくするために、テープは折り返しはせず、通常のミシンで、ひと針ひと針カンヌキ縫いをしました。

 


作業のしやすさに特化した、ベルトになりました。

 

 

2025.8.27 | note

2025.8.25

川の無限

 

週末は祖谷川に川遊びに行ってきました。
妻の誕生日だったので、小旅行。

子には、「綺麗な川で泳ぐと、1週間くらいずっと爽やかに過ごせるよ。」と言っていた。
「それって無限ってこと?」「そう、川で泳ぐとたしかに無限になるね。」
というわけで、無限になりに川へ。

かずら橋から、上流に散策すると、川の間に、大きな丸太が挟まっているのが見える。

その丸太の半分は木で、半分は石化して、石になっている丸太だった。木って石になるの?と思ったけど、目の前の丸太は、木が石になることを、その姿で示してくれている。

一度、半木半石の丸太を見たあとでは、どの石が木が長い時間をかけて石になったものかが分かるようになっている。今立っている巨石も、木が流され、堆積し、砕け、また堆積することを繰り返し、巨大な塊となり石化したものだったと分かる。それまで石としてしか見えなかったものが、1本の丸太を見たことで、もともと木であったことを知覚できるようになっている。その知覚を通して、木の時間がその場に立ち現れてくるように感じる。不思議な感覚だ。

川を歩いて下る際は、皆で、「これは木だったやつだね。」などと言いながら、新しく開いた回路を味わうように、さまざまな石を眺める。「石だけど木にしか見えないね。」どうしてこれが石に見えていたんだろうか?

石化した木には、堆積して固まりになったものもあるけど、1本の巨木だったであろうものも紛れていて、木であったことを想像できない太さだった。大昔にはこんな大木が生えていたのだろうか。その木だった石はまさに、「恐竜時代のメッセージ」で、そのメッセージをしっかり受け取ったとは言い難いけど、「しっかり見たよ、君たちはもともとは木だったんだね。」と小さな声でささやくくらいは出来た。

川で泳いで無限になるという趣旨とは、少し違った角度で、無限を感じた週末でした。

 

 

 

2025.8.25 | note

2025.5.26

週末に作ったもの

 

脚立に登らず地面にいながら雨樋掃除ができるように、パーツを強引につなげて(パーツの隙間は無視して)ブロアーを改造。

下の枝は、土で固まった箇所をゴリゴリする道具。ちょうど良い角度の枝ぶりの木を選んで制作。(枝を切っただけ。)

これで、2階の屋根の雨樋も掃除できるようになった。

地味ながらも、安定しない脚立に乗って作業しなくていいので、梅雨前の雨樋の掃除が、少し楽になりました。

 

 

2025.5.26 | note

2025.5.23

テーブルの上の十字

 

ビニ板の下に、A4用紙に書いた十字がある。

ずっと使っているので、何年ものの十字だろうか。記憶にはないけど、引越しの度に新調しているような気もするので、おそらく3代目の十字になる。
 
ある時、ホックを打っていて、玄能で打つ力が逃げないように、テーブルの足の中心でホックを打つのが良かろう、と思い、ささっとA4用紙にマッキーで十字を書いて、ビニ板の下に潜り込ませた。
 
その時から、ただテーブル足のセンターを教えてくれるだけで、なんの主張もしない十字が現れた。
 
記憶にも残らず、普段は忘れてしまっている十字だけど、今日はなぜだか、10秒ほど、十字を見てみた。
まぁ、格別感じることはなかったけど、文章にしておこうという気にはなったので、書いてみました。

 

 

 

2025.5.23 | note

2025.5.23

仲良きことは

 

少し前に、染料入れと薬品入れをガラスにしたいと、ふと思い立ち、工房にやって来た実験用ガラス容器。

 

 

使ってみると、片方を使うときは、もう片方がフタ置きになってくれ、もう一方を使うときも、同じように、もう一方がフタ置きになってくれる。

 

 

まったく想像していなかった使い勝手。嬉しい誤算。

この容器を使っていると、なぜか「倚りかからず」の詩が頭に浮かんでくる。

お互いをサポートし合うような、たまには倚りかかる関係性の容器を見ていると、今度は実篤氏の詩が頭に浮かんでくる。

 

 

 

2025.5.23 | note

2024.12.28

仕事納め

 

急に年末がやってきたようで、気がつけば仕事納め。
大掃除でもしようかと思ったけど、通常制作がしたいなと思ったので、
正月は旧暦を採用するとして、淡々と制作する。

今年は「しゃーない(しかたがない)」と「知らんがな」「まっ、なんとなく」という言葉をよく使った一年でした。

今年もありがとうございました。

 

 

2024.12.28 | note

2024.12.21

ついつい

 
ものを作ったら、名前をつけて、なにかしらの文章で、どんな風に作ったのかと綴ることが、自然とセットになっています。ものをおさめるパッケージを考えることも、その連なりのひとつ。
 
 
今回は、ちょうど良いもの見つからなかったので、試作の型紙などに使う、ポール紙でパッケージの型紙を作り、ボール紙で作りました。
 
パッケージはついつい作ってしまいます。
 
 
「ついつい」がてら、簡易梱包のための、ダンボール枠も作りました。
 
 
 
2024.12.21 | note

2024.10.23

「住んでいる町」終了しました

 

tirupatiさんでの展示「住んでいる町」終了しました。

自分が住む町で展示するなら、何がしたいんだろう?
と考えながら、作っていった展示会でした。

 



いろのみさんの演奏会は、しとしと降る雨の中に行われました。
セッティングから演奏会までを見ていて、新しい楽器や、場所や環境にチューニングするように、終始、笑い声とともに楽しみながら進んでいくようすが、いいなぁと思いながら眺めていました。

 


あたたかな、心にしみる演奏会でした。
普段あっている友人や、はじめましての方と一緒に音楽を共有できるのは、よき時間でした。作ったカーテンは使わなかったものの、物販コーナーの敷物として、使われていました。終始ブリコラージュな演奏会でした。

展示に向けて作った小さな冊子は、今後も細々と続いていく予定です。
小さな読み物を自分たちの手で作れたことに、手応えのようなものも感じました。

個展というかたちは、久しぶりでしたが、いろんな方に見ていただき、お話できたこともよい時間でした。関わってくださった方、お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。
 
 
写真は展示室の裏庭の木に住んでいる鳩。(分かりにくいですが)
在店の日は、会場に着くと、毎日見に行っていました。 
 
 
2024.10.23 | note
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