ANDADURA

BLOG

2026.3.11

別冊写真号「こそこそ 4」

 
 
 
こ そ こ そ 4
 
 
「そこ 3」と一緒に、別冊写真号「こそこそ 4」も同時につくりました。
この号は、文章を載せるか迷いましたが、なりたちの説明がないのは不親切に思い、文章を書きました。「こそこそ 4」はこんな意図で作りましたという説明でもありますので、そのまま載せます。
 
 

子どもが2歳になったころ、簡単に操作できるデジカメを渡した。
子どもがどんな風に、世界を眺めているのか?どんなものに興味があるのか?撮った写真を見たら少しは感じることができるだろうと思ったからだ。

その時、手渡したデジカメには興味を示さず、鏡像体験前の世界を見てみたいという僕の意図は、デジカメとともに、押入れにしまわれることとなった。

 

5歳になり、写真を撮ることに興味をもち始めたので、あの時のデジカメを手渡す。乱撮と呼びたくなるペースで撮られた写真を、パソコンに読み込んで眺める。その写真は、当たり前のことだけど、視点が低い。近くにいる僕を撮った写真は、そびえたつ塔のようであった。曲がり角で僕と出くわした時に、「びっくりした。巨人かと思ったよ。」と言った言葉を思い出す。

スーチャ(子どものことをそう呼んでいる)の撮る写真は、いくつかの撮り方があるようだった。

好きなもの、記録しておきたいものを目にした時に写真を撮る。その記録としての写真の場合は、「アパ(僕はそう呼ばれている)、撮っておいて」と指示を出し、自分が撮らなくても、その対象が残れば、それで満足なようだ。

もうひとつは、純粋な遊びとしての写真。写真というかカメラ遊びの結果たまたま撮られたもの。話は少しさかのぼる。我が家にコピー機能つきのプリンタがやってきた頃に、遊んでいた遊びがある。コピー機のフタをあけ、読み取りの光に合わせ、コピーするものを動かす。そうするとグニャっと歪んだ絵が印刷される。その遊びは「ウルトラ念力」と呼ばれ、インクを大量に消費することもあり、怒られることとなるが、こそこそと続けられていた。

「ウルトラ念力」はカメラ遊びに継承され、写真を撮る時に、カメラをゆらし像の歪みを楽しんでいた。暗い場所で撮る時には、カメラを揺らすのではなく、カメラを僕に渡し、自身が激しく動き写真に写り、フランシス・ベーコンの絵のように、捻れた自分の姿を楽しんでいた。

暇な時に撮った写真は、子どもがどんな風に、世界を眺めているのか?どんなものに興味があるのか?という問いに応えてくれそうな写真だった。
 
車の中で僕の携帯電話(カメラ性能の低いガラケー)で撮った写真は、ちょっとした窪みのクローズアップ。自分の足、座席のシートの柄のアップなど、一緒にいた車内で撮られた写真には見えなかった。対象に入り込むというか、対象そのもののような没入感があった。写真を眺めながら、今の自分は対象にそんなに接近し見ることがない、という事実を感じる。おそらく僕も、小さな頃には、その対象と溶け合うような視点で世界を眺めていたのだろう。
 
鏡像体験前の世界を見てみたいという僕の意図は、子どもの見た世界を通して、自分が見ていたであろう世界を想像するというかたちで、懐かしさを含んだ断片として、僕に手渡された。
 
ここに載せられなかった写真たちを含め、たくさんの写真をパソコンで画面で眺めながら、肩の力が抜けるような感覚があった。写真としての良し悪しは別にして、その作用は何かとても大切なもののように感じた。
 
子どもの撮った写真で冊子を作るのは、「親バカ号」になる危惧もあり、こうやって言い訳がましく、文章を書いているけど、その作用を共有できるかもしれないと思い、こそこそと冊子を作るのだった。
 
 
2026.3.11 | information そこ
page top