
去年は椅子について考えることが多かった。あつおくんと度々会っていたので、椅子について、自然に思いを巡らせるようになる。
あつおくんと話していて、椅子の黄金時代と比べると、材料の質や、作るのにかけられる時間など、ほとんどの分野で勝ち目がないそうで、現在に有利な点といえば、その後にどんな椅子が作られたかを知っている、という知の部分だった。
どんな椅子が作られたのかを考えると、100年くらいのタイムスパンで、ものごとを眺めることになる。椅子から離れ、人類にとって、椅子に座るという行為は何なのか、ということに思いを巡らせると、タイムスパンは随分と広がる。知が武器であるなら、パースを広げるという行為は、とても面白い冒険のように感じる、というわけで、椅子に座るということについて、思いを巡らせてみる。人類学者が婚姻制度について思いを巡らせるように。
と言っても、ただ空想・妄想しているだけで、根拠は無い。思いを巡らせているだけ。
まずは、これまで見たことのある椅子をあれこれ頭の中で思い浮かべみる。
古い椅子は、座の低い椅子が多い、まずはそこに焦点をあててみる。その椅子は、靴作りの椅子だったり、牛の乳搾りの椅子だったり、何かの作業の助けとなる椅子が多い、座面の高さは、切り株の高さのを模しているように感じる。あるいは、深くしゃがんだ方が作業に集中できるのかもしれない。そんな高さだ。
現在使っている椅子の高さは、テーブルの高さに合わせた高さで作られている。テーブルが無い時代は、その高さに縛られる必要がなかった、のかもしれない、と想像する。テーブルが無いことを前提として、作業しやすい椅子の高さがあるのかもしれない。
椅子というのは、何らかの作業をしやすいように手助けしてくれるものである。しかし、それ以前に、椅子というものは、人を長い時間そこに留めておくことのできる道具でもある。この作用は座るという機能よりも、根幹に根ざしているようにすら感じる。
その作用に最初に目をつけたのは、多分教会(的なるこも)なのだと想像してみる。ひとつの場所に人を留めておくことができるなら、教義はよりスピーディーに、効率的に広げることができる。僕が神父ならそうするかもしれない。
考えてみると、例えば椅子がない空間に何人かの人がいる場合、円座になったり、ランダムな配置になりそうだけど、椅子を並べることで、空間に規則性をもたらすことが出来る。これも椅子がもつ大きな作用。
考えてみると、例えば椅子がない空間に何人かの人がいる場合、円座になったり、ランダムな配置になりそうだけど、椅子を並べることで、空間に規則性をもたらすことが出来る。これも椅子がもつ大きな作用。
その規則性は、円座による双方向の関係性から、一方向の関係性を生み出すことに繋がっていったのだと想像する。規則正しく並んだ椅子は、ランダムな立ち振る舞いを自然と排除し、その場に規律を立ち上げる。1人の知っているものが、複数の知らないものに何かを伝授するという環境も整えられる。
運動場などで整列しているのは、椅子以後の思考法で、椅子による規則性がない時代は、軍隊による整列など、特殊(その時代においては平常のことでありえたかもしれないけど)に用いられたくらいで、あまり整列という状況は生まれなかったのではなかろうか。
もちろん、個々人が椅子に座るという行為はずっとあっただろうけど、教会的な椅子の用い方は、座るという行為が当たり前になった今、きちんと考えておくことが大切なことのように感じる。
教会的な椅子の用い方は学校にも広がる。そして会社にも伝播する。学校というものは、古くからあっただろうけど、椅子の作用により、学校という空間に大きな変化をもらたしたのだろうと推測する。
この規則性について、思いを巡らせていると、フーコーのいう、規律訓練型権力という言葉が頭をよぎる。椅子というものは、規律訓練型権力に深くコミットしている、というかそれを下支えするものである。座るということで、長時間そこに留まることが出来るというあり方は、うがった見方をすれば、権力的なありようと結びついているように感じる。
インターネットが出てきた時に、このメディアは自分たちに何をもたらすのか?ということは、再三考えられたし、昨今のAIの議論も然りだ。椅子の登場は議論を生んだのだろうか?それまで家でも椅子を使っていて、この馴染みあるものが議論の対象になるとは考え難い。教会にずらっと並ぶ椅子を見た時に、当時の人は何を感じたのだろうか?
椅子の教会的な用いられ方は、人間に規律を与えた、という一面は見落としてはならないことのように感じる。椅子に座り、音楽も聴いたであろうし、さまざまな知恵を広げるのに役立った、ということを僕は知っている。椅子に罪はない。名作椅子を作った先人たちは、座ることに関するさまざまなベクトルを考えたのだろうか?と想像してみる。当時の椅子作りは、良きライバルもいて、皆で切磋琢磨できる。良い材を使うこともできるし、人々の生活を豊かにすることだと信じられた時代は、そんなことを考えなかったのではなかろうか?僕が当時に生きていたら、良い椅子を作ることが楽しくて、そんな余計なことは考えなかったかもしれない。世の中の回転のようなものが、緩やかになったことで、考えざるを得なくなったように感じる。
寺子屋のイメージが頭に浮かぶ。(映画とかのイメージだけだけど)そこには椅子がなく、おそらくその日の気分や体調や得意・不得意の科目なんかで、今日は後ろに座ろうとか、今日は最前席でがっつり勉強しよう、などと変則的に、その時その時の感覚で席を決めていただろう。
お城に行った際に見た、殿さまが使ったであろう肘置きも思い出される。時代劇では、戦場において、椅子に座っている武将の姿は描かれているけど、日常的には椅子に座る習慣はなかったのだろうか?どうなんだろう?椅子に座る習慣はなかったとのことで話を進めてみる。
なぜ、日本では椅子が用いられないのかを想像すると、肚の感覚を持っていたからなのではないだろうか。椅子の背もたれにもたれかかると、肚が開き、無防備な状態になる。この肚がさらけ出すことに違和感があったからじゃないか?肘掛けにもたれかかっても、肚は開かない。もしくは、刀を差していることと椅子は相性が悪いのかもしれない。
この肚の感覚は、ヒントになるのかもしれない。
といっても、現在では、椅子に座って、テーブルで作業するのが当たり前になっているので、そこから逸脱したものは作りにくいだろう。でも、離れたところから、座るということを眺め、その作用を知っておく(ただの想像だとしても)ことは大切なことのように思う。
まぁ、実際のところは、分からないんですけどね。